しがない哲学徒

日々の鬱積を吐き出します。

哲学徒は答えたい:日常生活の中での哲学の意味

哲学はしばしば日常生活の中で何の意味があるか分かりづらいと言われるが、それは主に理論的な事を取り扱っているからなんだろう。

 

哲学でなくとも”学問の理論的な部分の研究”は、基本的に何の意味があるか分かりづらい。例えば数学や物理の定理や公式や法則は、それ自体では実生活に何の意味があるか、どれだけの人が説明できるだろうか。
しかし、多くの人が説明できなくとも、こういった理論は実は生活の様々なところで密かに役立っている。
例えば、現代でネット通信する際に使われているRSA暗号は、素数因数分解を応用した技術だと聞いた事がある。

 

数学等と同じように、哲学や倫理学も”理論の段階”においては何の意味があるか分かりづらいと思う。だが、哲学も実は生活の様々なところで密かに役立っているのだ。

 

例えば、法律を作る時の事を考えてみて欲しい。
国や州によって法律は異なるが、「この国では有罪」・「この国では無罪」の線引きは一体どのように定められるが妥当なのだろう?

「人を殺してはいけない」という法律は、現代ならどこの国にもある法律だと思う。しかし、時代や文化が変われば人殺しが容認される場合もあるのだ。

例えば、日本でさえ江戸時代には「切り捨て御免」という考え方があった。江戸時代の武士は無礼を働いた町人や農民を切り捨てる事が合法的に許されていた。
また、相手が町人や農民じゃなくとも、仇討ちのための殺しは美徳とされている節さえあった。

現代の日本でさえ、死刑制度という形で殺しを容認している側面がある。なお、世界的に見れば死刑制度を継続している国はマイノリティだ。

 

「法律を作る」という事が一筋縄ではいかない事が、ここまでの話だけでも垣間見えたと思う。
法律という代物は、時代の変化や文化的背景を考慮せずして作ることはできない。法律を作れなければ、法治国家として国家運営する事ができない。

では、どうやって法律を作れば誰しもが納得するものになるのだろうか。
どういう罪を設定して、その罪にどれだけの罰を科すか、また、法律の原案ができたとして、それを可決するのは国民なのか議会なのか。


「良き法律」・「良き社会の在り方」とは、どのような状態なのだろうか。

 

時に法律は合理的な判断基準だけでは作れないもあり、いかに殺しをした人物でも情状酌量の余地がある場合もある。森鴎外の『高瀬舟』のような例を考えると分かりやすいだろうか。

 

こういった問題に方向性を指し示す事ができる学問が、哲学や倫理学といった学問分野なんだろうと私は考える。
法律を直接取り扱う学問としては法学の存在もあるが、この学問はむしろ今すでにある刑法や民法の運用の仕方を学ぶ学問のように感じる。

 

新たな法律を作る、あるいは既存の法律を変えようとする時、哲学や倫理学の今日(こんにち)まで歩みは社会的規範を指し示してくれるのだろう。哲学や倫理学は、遥か古代の時代から脈々と続いてきた「人間が生きる」という事を考え続けてきた歴史の塊なのだから。

 

人間は生きていく上で――好む好まざるに関わらず――社会(コミュニティ)の中で生きていかざるを得ない。
社会(コミュニティ)というものは、そこに所属しているものに一定のルールを課してくる。
ルールを課してくる一番の土台にあるのが国家だとしたら、次のコミュニティは市区町村、その次は会社や学校になってくるだろうか。
無論、もっと細分化すれば家族や友人関係といった社会(コミュニティ)も範疇に入ってくる。
そういった社会(コミュニティ)が「正しい社会(コミュニティ)」あるいは「善い社会(コミュニティ)」である為に、哲学や倫理学は確かに使われている。

 

話がだいぶ大きくなったので、ここで話の出発点である「”哲学”は何の意味があるか分かりづらい」という疑問に立ち返らせようと思う。
ここまでは実生活の中でどのように哲学や倫理学が関わっているか一例を示す事によって疑問に答えようとしてきたが、他方、そもそもこの疑問を持ちやすい世代がいるような気もしている。

 

私を含め、現代の若い世代――いわゆるデジタルネイティブ世代――においては生まれた時からネットが存在していたから、ネット以前はどのように情報を引き継いで来たのか想像しにくいのかもしれない。
現代ではネットを通じて様々な情報に触れられてしまうから、簡単に”答え”が手に入るように錯覚してしまう。言い換えれば、考えなくても検索すれば――ググれば――良いという発想になっている。

 

ここでネット以前に思いを馳せてみたいと思う。
一体、ネット以前の時代はどのように考え方や知恵を人類は引き継いできたのだろう。
ネットなど、たかだかここ30年程度の歴史しか無い。ネット時代より前にも、数多の人類、数多の国家が存在していたのである。
そして、それら国家の中には法律があり、社会があり、独自の秩序が存在していた。

 

ある時代のある国家は栄華を極め、また大失敗をして衰退していく国家もあった。
それらの歴史の上に存在している現代においてさえ、「完成された国家運営の方法」は未だ見つかっていない。

 

だが歴史に、先人の知恵に学んだからこそ、今日(こんにち)の人々の日常が成り立っているのもまた事実なのだろう。
現代を生きる我々は、ネット以前の人々の哲学や道徳によって形成された「人間の生き方」や「社会の在り方」を今に引き継いで、民主主義を、社会主義を、あるいは資本主義といった社会の中を生きているのだ。

 

こう考えると、「哲学とは何の意味があるか分かりづらい」というのはある意味で現代病的な側面があるのかもしれない。
ネット以前の時代に生きた人は、親や年上の兄妹、近所の大人、親戚、先生、上司、先輩、あるいは国家の教えを本で、口伝で受け継いできたのだろう。こういった時代を生きた人にとっては、むしろ様々な先人の知恵が己の哲学を形成し、人生の指針になっていたのではないだろうか。
ネット以前の時代は、もっと身近に哲学が存在していたように感じる。現代の哲学の在り方はどうだろうか。法律のような大きな枠組みで活かされている側面以外で、身近な生活の中で”哲学”は何をしているのだろうか。

 

今こそ、デジタルネイティブ世代の哲学を考える。

 

前半で述べた内容では国家運営に対して哲学がどうやって関わっているかの見解を述べたが、ネットの海には国家規模以上の人がいる。
世界中の人が繋がれるネットの海は常に情報で溢れかえっており、それらの情報はあまりにも玉石混交過ぎる。
現代においては最大の社会(コミュニティ)はある意味で国家ではなく、デジタルの中に存在している。
そして、社会(コミュニティ)が生まれれれば、そこに一定のルールも生まれていく。

 

デジタルネイティブ世代が身近に哲学を感じられるとしたら、いわゆる”ネットリテラシー”を意識する時が最初なのかもしれない。
”哲学の理論的な部分”の話は確かにそれだけでは何に役立つか分かりづらいが、それらは確かに現代のネットリテラシーにも繋がっている側面がある。


数多の人が存在しているネット上の”見えない国家”とも言うべき空間から、必要なものを取捨選択する力、必要なものだけを発信する力、情報に線引きする力、どのように使いこなせば良いのか思考する力を、哲学や倫理学は確かに与えてくれている。

 

---

追記:大分説教じみてしまったが、哲学は源流を辿ると弁論術(≒ディベート術)に繋がっている部分がある。なので、もっとラフに考えるなら、レスバで打ち負かされないように理論武装する学問としても哲学は機能していると思う。